東京大学 大学院理学系研究科 化学専攻 有機合成化学研究室/小林修教授

    「水を溶媒とする有機化学」を追求する小林修教授。環境に優しい合成法への取組みなどを伺いました。

    小林 修
    小林 修(こばやし しゅう)
    東京大学 大学院理学系研究科 化学専攻・理学部 化学科 有機合成化学研究室 教授
    1983年(昭和58年)3月
    東京大学理学部化学科卒業
    1985年(昭和60年)3月
    東京大学大学院理学系研究科修士課程修了
    1987年(昭和62年)3月
    東京大学大学院理学系研究科博士課程中退
    1987年(昭和62年)4月
    東京理科大学理学部応用化学科助手
    1988年(昭和63年)4月
    理学博士学位取得(東京大学)
    1991年(平成3年)4月
    東京理科大学理学部応用化学科講師
    1991年(平成3年)
    日本化学会進歩賞受賞
    1992年(平成4年)4月
    東京理科大学理学部応用化学科助教授
    1997年(平成9年)
    Springer Award in Organometallic Chemistry (Springer賞)受賞
    1998年(平成10年)5月
    東京大学大学院薬学系研究科教授
    2001年(平成13年)
    IBM科学賞受賞
    2002年(平成14年)
    名古屋シルバーメダル受賞
    2005年(平成17年)
    三井化学触媒科学賞受賞
    日本学術振興会賞受賞
    2006年(平成18年)
    Arthur C. Cope Scholar Awards受賞
    Howard Memorial Lecturer賞受賞
    2007年(平成19年)4月
    東京大学大学院理学系研究科教授
    2013年(平成25年)
    Humboldt Research Award受賞
    第12回グリーン・サステイナブルケミストリー賞 文部科学大臣賞受賞
    2016年(平成28年)
    東レ科学技術賞受賞
    2019年(平成31年)
    日本化学会賞受賞
    2020年(令和2年)
    紫綬褒章(令和2年度秋)受賞

    有機合成の溶媒として水を用いる

    有機合成化学は溶媒として有機溶媒を使用することが一般的ですが、小林先生の研究テーマは一貫して「水を溶媒とする有機化学」です。それはいわば、グリーンケミストリーでもありますが、どのような経緯から「水」を溶媒とする有機化学の研究を始めるようになったのでしょうか。

    小林教授

    私は大学3年の時に理学部で化学を専攻しましたが、1、2年の時には生物にも興味があり、「生体反応は面白い」とも思っていました。生体では水が大量に存在する中で酵素が触媒となって、人体に必要なさまざまな化学反応を起こしていますから、「水」そのものに対する興味をそれ以来持ち続けていました。

    私の恩師は向山光昭先生なのですが、その時私はまだ向山研の卒研生か駆け出しの大学院生だったと思いますが、ある雑誌で「将来の化学の夢」というようなタイトルの特集が組まれていて、そこで向山先生が「水の中で脱水ができたら核酸やオリゴ糖などが皆水中で合成できるようになる」というようなことを言われていました。水中では普通は「加水分解」ですので、その逆の「脱水」というのは凄いなと思いました。

    私は32歳のときに東京理科大学で独立の研究室を持たせていただきましたが、そのとき、この向山先生の言われたことが頭のどこかに残っていました。

    そのとき、以前から興味があった生体のことも思い出し、水を溶媒とする有機反応の研究に着手しました。生体の中では非常に精密な有機合成が行われています。我々の活動や生命は多くの優れた化学反応が組み合わされて維持されています。ところが我々の身体の中には有機溶媒は一切無い。何があるかといえば、水があります。肺や脳には80%以上、生体内では平均で60〜70%の水があり、この大量に存在する水の中で酵素を触媒とする有機合成が行われています。しかも、その反応は化学収率100%、選択収率100%です。これは最新の有機合成化学でもなかなか達成できないいわば理想的な反応です。そこで、有機反応の溶媒として水を用い、フラスコの中で酵素のように機能する触媒を開発し、この生体反応に近づきたいと考えました。

    そうした「水を溶媒とする有機化学」の研究を進めていたときに、全くの偶然なのですが、希土類金属トリフラートという水の中で安定的に機能するルイス酸触媒を発見しました。化学の歴史の中でも大きな発見でした。これがきっかけで水を溶媒とした有機合成の研究もどんどん進みました。この研究が進むにつれて、私の研究は「グリーンケミストリー」と呼ばれるようになりました。

    もちろん「水」を溶媒とする有機化学はグリーンケミストリーそのものなのですが、研究を始めた当初はその点よりもむしろ生体反応との関連に興味がありました。

    今お話に出た向山光昭教授からはどのような影響を受けたのでしょうか。

    小林教授

    化学科で向山光昭教授の「実験研究が如何に面白いか」という講義を受け、4年生で向山先生の研究室に入れていただきました。多分、今の私の研究スタイルの多くの部分で、向山先生の研究スタイルを受け継いでいると思います。その研究姿勢は、「人真似をしてはいけない」、「人の後を追いかけてはいけない」、「独自のことをやらなければならない」、ということ。そして化学は自然科学を相手にする実験中心ですから、うまくいかない方が多い。うまくいかなかったときに、次もまただめではないかと暗く落ち込むのではなく、結果を素直に受け止めて、「次こそうまくいく」と考える明るい気持ちをもつこと、そして常に前を向いて情熱を持って取り組むことを教えられました。時は経ましたが、これらの考え方は今でも多くの研究者にとって役に立つ指針だと思います。

    「水」を溶媒とする有機化学の研究はどのように展開したのでしょうか。

    小林教授

    大量に存在する水の中で起こる生体反応をフラスコ内でも実現しようと、いろいろな有機反応を試しました。そうした「水を溶媒とする有機化学」の研究を進めていたときに、希土類金属トリフラートという水の中で安定的に機能するルイス酸を発見しました。それまでは「ルイス酸は水の中では分解する」というのが化学の常識でしたので、その常識を打ち破る大きな発見でした。これがきっかけで水を溶媒とした有機反応、有機合成の研究もどんどん進みました。一方、世の中では環境に対する意識が高まっていき、有機化学の分野でもグリーンケミストリーという考え方が徐々に定着していきましたが、水を溶媒とする私たちの研究はまさにグリーンケミストリーの研究であるということで、その分野でも私たちの研究は注目されるようになりました。

    今お話ししたように、それまでは「ルイス酸は水の中では分解する」というのが化学の常識でしたが、よく調べてみると、実は希土類金属トリフラート以外にも水中で安定的に機能するルイス酸があることを見つけました。また、それらのルイス酸には、共通の化学的性質があることもわかりました。

    有機反応としては、希土類金属トリフラート発見当時は「水を溶媒とする」といっても、反応基質を溶かすことが必須でしたので、有機化合物を反応に用いる際にはそれを溶かすために有機溶媒を用いる必要があり、反応は水と有機溶媒の混合溶媒で行っていました。

    しかし、生体内には有機溶媒はありません。そこでフラスコ内でも100%水中で有機反応が実現できないか考えました。そこで思いついたのが「界面活性剤」です。私たちの身の回りにある石鹸やシャンプーがこれに相当します。水中で安定なルイス酸に界面活性剤の性質を導入することで新触媒を開発し、これを用いて100%水中で有機反応を実現しました。

    「水」を溶媒とする有機化学の研究は現在どこまで進んでいるのでしょうか。

    当社エバポレーターシステムの前にて
    小林教授

    「有機反応は有機溶媒中で行う」というのはいわば有機化学の常識ですが、グリーンケミストリーの広がりもあって、現在では世界中で「水を溶媒とする有機化学」が活発に研究されています。

    そのような中で私たちは、それまでは水中では実現不可能と考えられていた高度な触媒的不斉合成を水中で実現する、冒頭で向山先生が夢として語られていた「水中での脱水反応」を実現するなど、数々の成果を挙げることができました。これらの研究では、通常の有機溶媒中では見られない反応性や選択性が水中で発現するいくつもの例を見つけることができました。

    そうした中で、数年前、現在の最先端の研究につながる発見をしました。これは実は全く予期していなかった発見だったのですが、その時は、水中での触媒的不斉合成反応の開発を行っていました。ホウ素の不飽和カルボニル化合物への付加反応において、水中では有機溶媒中に比べて遥かに触媒効率が良いことを見つけ、その要因を反応機構と共に調べたところ、この反応では、用いた反応基質だけでなく、触媒も不斉配位子も全て水に不溶であることがわかりました。すなわち、基質も触媒も何も溶けない水中において、非常に効率の高い触媒反応が進行することを見つけました。

    普通の有機反応とは全く違いますね。

    小林教授

    そうです。通常の有機反応はまず、用いる基質を溶かすことから始めます。有機化学で取り扱う基質のほとんどは有機化合物なので、その有機化合物を溶かすために有機溶媒が用いられるわけです。この発見は、いわば有機反応の基本中の基本を否定した。すなわち、溶けなくても良い。何も溶けなくても反応は進行する。しかも、全てが溶解した系に比べて遥かに効率良く反応が進行するのです。

    このように有機反応の常識を覆すような発見をしたわけですが、その胆(きも)となる要因はなかなか分かりませんでした。そのような中、水中での有機反応を少し整理してみようと考えました。先にもお話ししたように、水中での有機反応は世界中で活発に研究されていますので、その数は膨大ですが、それを整理して分類、網羅的に理解しようとするような研究はありませんでした。そこで私たちは、水中での有機反応の中でも合成上有用性の高い、触媒を用いる水中での有機反応の分類を試みました。

    分類はどのようなものなのでしょうか。

    小林教授

    まず、用いる反応基質が水に溶けるか、界面活性剤を使って可溶化するか、水には全く溶けないかで分類しました。次に、触媒がどこに存在するか、水中か、ミセル中か、用いている反応基質中か、あるいはどこにも入り込まず独立に存在しているかによって、大きく7つのタイプの反応に分類しました。ここで分かったのは、私たちがType IIIcに分類した反応系、すなわち、反応基質も触媒も一切水には溶けない反応系で大きな反応加速が起きていることです。ここでは、水、反応基質、触媒が作り出す界面が非常に重要な役割を果たしていて、この界面が反応場になっているらしいことがわかってきました。

    新しい発見、そして新しい「水中の有機化学」へ

    小林教授

    どのような界面が形成して優れた反応場になっているかを、今、一生懸命研究しています。しかし、これは全てが溶けていない状況なので、そう簡単ではありません。一方で、このような反応場はこれまでの有機反応ではほとんどありません でした。これまでの有機化学では、有機溶媒を用いて反応基質を溶かすことが基本になりますので、このような界面は存在しません。これまで知られていなかった反応場で、もしかしたらすごい反応が起きているのかもしれない。ワクワクする研究です。

    有機化学は長い歴史を持ち、大学や大学院の授業にもなり、すでに体系化され網羅的にまとめられた本もいくつも出ています。しかし、この「有機化学」は有機溶媒を用いて反応基質を溶かすことが基本になっている、いわば「有機溶媒中の有機化学」です。それに対して、今、私たちが研究しているのは「水中の有機化学」で、ここでは反応基質を溶かすことは必ずしも必要でない。そして、これまでの有機化学では知られていなかったことが次々に明らかになってきています。これまでの「有機化学」に代わる新しい「有機化学」。「水中の有機化学」です。「水中の有機化学」はこれからもどんどん発展して、やがて体系化されていくでしょう。